2-1-3

〝社会のあり方〟と〝自由と民主主義〟の現在過去未来

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〝社会のあり方〟と〝自由と民主主義〟の現在過去未来

〈目次〉

・はじめに

・〝資本主義的生産様式の社会以前の社会〟の〝自由〟

・〝資本主義的生産様式の社会〟の〝民主主義〟

・〝資本主義的生産様式の社会〟の〝自由〟

・〝自由な競争〟が私たちに資本主義を強制し、資本主義社会を違和感のないものにする

・資本主義社会の次に来る社会の〝自由〟と〝民主主義〟

・資本主義社会の次に来る社会が高度に発展したときの〝自由〟

このページのボリュームが少ない理由

 

はじめに

 

写っている女性は、クリントンさんですか?!)

〝社会〟のあり方に応じて、その社会での〝自由〟の質とその許容度は変化します。〝自由〟とは自らの判断で決定し実行できるということですから、その構成要素には時間的、空間的、物質的、社会的条件等自己に関連するすべてが含まれますが、ここでは、社会の進み具合に応じて〝自由〟はどのように変化していくのか、〝社会〟と〝自由〟の現在・過去・未来について、そして、〝自由〟と〝民主主義〟との関係について、みなさんと一緒に見ていきたいと思います。

 

〝資本主義的生産様式の社会以前の社会〟の〝自由〟

〝社会〟のあり方に応じて、その社会での〝自由〟の質とその許容度が変化するということは、「ある社会」での〝自由〟はその社会を存続させ維持させるために許容された質と許容度の「自由」だということです。

  たとえば、「資本主義的生産様式の社会以前の階級社会」では、国家はその「国家の支配者」が天から与えられたものとして存在し、「国家の支配者」が社会も個人も支配していましたから、社会を構成する集団も個人もそのあり方を「自らの判断で決定し実行する」ことはできず、社会のあり方を決める〝自由〟も個人のあり方を決める〝自由〟も、「国家の支配者」が支配を円滑におこなうために認める範囲の「自由」に、基本的に、制限されていました。

 

〝資本主義的生産様式の社会〟の〝民主主義〟

上記のような「あからさまな支配」関係を「契約」関係で隠蔽した「現代の生産様式」である資本主義的生産様式の社会は、少数の支配者が多数の被支配者をコントロールして支配するために、「金権」と「歪められた事実」、そして、「ゲルマンダリングな選挙制度」を基礎とするカッコ付きの「民主主義」があらわす「民意」に基づく“政治”という形態をつくることによって、その支配の正当性を担保しています。このように、G7先進搾取国連合が金科玉条のようにいう彼らの「民主主義」は少数の支配者が多数の被支配者を支配するため政治の道具としての限られた分野の歪んだ「民主主義」にしか過ぎません。

そして、「現代の生産様式」である資本主義的生産様式の社会の企業における経営者と従業員との関係は、「Employment-at-will」(任意に基づく雇用)を原則として双方の「自由」意志に基づく雇用関係があるだけで、生産手段からの「自由」と解雇される「自由」だけを与えられた労働者には、彼らが、社会を維持・発展させるうえで欠くことのできない現代の企業の主要な構成員であるにもかかわらず、「ステークホルダー」の一員として、当然与えられるべき、企業経営へ参画するためのルールがなく、企業経営における〝民主主義〟が欠落しています。

このように資本主義的生産様式の社会の「民主主義」は、「企業」や「経済」のあり方を含む社会全般の〝民主主義〟ではなく、政治に限定された、しかも、歪められ矮小化された「民主主義」です。資本主義的生産様式の社会の「民主主義」の特徴は、民主主義が社会全体に組織されているのではなく、「民主主義」が政治支配の道具として政治のなかに歪んだ形で取り入れられているという点にあります。

 

〝資本主義的生産様式の社会〟の〝自由〟

このように資本主義的生産様式の社会には〝民主主義〟が社会全体に組織されていないので、社会が万民に等しく恩恵をもたらすような社会を、国民が当事者として〝自らの判断で決定し実行する〟という、国民による〝社会のあり方を決める自由〟が保障されていません。

「資本主義的生産様式の社会」の「自由」は、「搾取の自由」を認めて搾取を覆い隠すための契約の「自由」など、資本主義的生産様式の社会を維持し発展させるための「自由」を核心において、「個人の自由」を口実にして金次第の世の中を作っています。米国では、平等な生存条件を求めると、「社会主義者」とのレッテルを貼られることもままあることです。(*)

資本主義的生産様式の社会は〝民主主義〟を金権・フェイク・不公正な選挙にもとづく「政治」の中に閉じ込めて、資本に付与された株主の権利が社会的存在である企業のあり方を〝国民が決める自由〟を奪って、資本家階級に社会的存在である企業の支配を通じて社会の支配権を与え、「個人の自由」の名の下に資本家階級による搾取の自由を謳歌する権利が与えられる。このような、資産家にとって素晴らしい資本主義的生産様式の社会での「個人の自由」は、生産手段を持たない労働者階級にとっては不平等を受け入れることの「自由」以外の何ものでもありません。

(*)詳しくは、ホームページ6-3-6「第二回テレビ討論を終えて」及びホームページ2-1-1「二一世紀はどこに向かって進んでいるのか」を参照して下さい。

 

〝自由な競争〟が私たちに資本主義を強制し、

資本主義社会を違和感のないものにする

マルクスは、『経済学批判要項』で「資本の内的諸法則は、自由競争が発展するかぎりで、…はじめて法則として措定されるのであり、…資本にもとづく生産が自分(資本の内的諸法則)に適合した諸形態をとる」(マルクスレキシコン⑤P31下2~33全部)と言っています。資本主義社会は資本主義の内在的な法則が競争によって外部に強制的に現れる社会であり、儲けを求める競争によって資本主義を私たちに強制する社会です。

 私たちは、搾取を覆い隠す「自由」な契約と市場での「自由」な競争によって成り立っている社会のなかで生活することによって、「競争を通じて資本を大きくする」ことによって経済を発展させる社会を「普通の当たり前の社会」として認識し、「経済を発展させる」ために「競争を通じて資本を大きくする」ことを至上命題として追い求める資本主義社会を違和感のないものとして認識させられています。

私たちは、「契約」と「競争」のなかで──労働者が富を作り資本家がそれを横取りし、富を横取りしている資本家が富の創造者のように振る舞うという──転倒した社会が形成されているにもかかわらず、「契約」による搾取の隠蔽と「競争」によって資本主義的生産様式の内在的な諸法則が外的な強制法則へと転化することによって成立する資本主義社会に慣れ親しまされているために、「常識が不合理と見るものは合理的なものであり、常識で合理的なものは不合理そのものであるという」(『資本論』大月版⑤ P998-999参照)転倒した認識に蝕まれてしまいます。

だから、私たちは、資本主義的生産様式の社会のこれらのカラクリを暴露し続けなければならないのです。

 

資本主義社会の次に来る社会の〝自由〟と〝民主主義〟

私的資本が大きくなることを通じて経済を発展させるという資本主義的生産様式の社会を否定して、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という真っ当な考えが社会と企業の〝精神〟となり、〝民主主義〟が狭い「政治」の場面だけでなく、経済の大本である企業においても実現し、企業の統治に労働者階級が参加するような統治機構をもった、搾取の自由という利己的な「自由」が克服された、社会的になった生産の仕方が大転換した社会を21世紀は求めています。それは社会の「力」による支配から「正義」にもとづく社会の共創への転換です。科学的社会主義の思想を学んだ人たちは、このような社会のことを〝社会主義社会〟と呼んでいます。

この「資本主義社会の次に来る社会」の〝自由〟と〝民主主義〟は、社会の主人公である人民が〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会をつくるための〝自由〟と〝民主主義〟です。資本主義社会では資本が人を支配する社会であることを塗り隠すための手段として「自由」と「民主主義」が存在していましたが、この、いわゆる〝社会主義社会〟では、資本の軛から解放された〝自由〟な人民が〝社会のあり方を決める〟自由を享受するとともに、「資本主義的生産様式の社会」で謳歌されていた利己的な「個人の自由」は抑制され、思想信条の自由・表現の自由をふくむ〝個人の自由〟を妨げる政治的、経済的な障害は除去された、個人が〝社会の主人公〟として真の意味で平等に社会参加できる条件が整えら、〝民主主義〟(国民一人ひとりが社会の主人公であること)が実現します。

このように、私たちの〝民主主義〟はいわゆる〝社会主義社会〟で最大限発揮され、階資本主義的生産様式の社会で発展してきた「民主主義」は、社会の生産と分配のしかたに階級対立が組み込まれているが故に対立を前提とし、その解決手段として多数決を前提としているが、資本主義の終焉とともにその使命を終えます。

新しい社会は、自由の質を〝他者を顧みない個人的な自由〟から〝社会の発展を保障する自覚的な自由〟へ、平等の質を〝形式的な平等の保障〟から〝実質的な平等の保障〟へ、友愛の質を国家・民族・宗教を超えた友愛へと一変させ、人類の歴史は弱肉強食の野蛮の時代から人類共生の文明の時代へと大転換します。

 そして、この〝新しい生産様式の社会〟における〝民主主義〟と〝自由〟の理念の中に新たに書き加えるべきスローガンは、「企業と経済に〝民主主義〟を!」であり、「搾取と抑圧に〝不自由〟を!!」となることでしょう。

 

資本主義社会の次に来る社会が高度に発展したときの〝自由〟

資本主義社会の次に来る社会の高度に発展した社会、社会主義者のいういわゆる〝共産主義社会〟は、いわゆる〝社会主義社会〟を土台としてその上に現れる高度に発展した社会です。生産力が高度に発展し、基本的に誰もが文化的な生活を送ることのできる社会ですから、平等とか公平とかいう概念そのものが無意味で、そういう概念そのものが消滅した社会となるはずです。それは、マルクスの言う「精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち」の「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち」の社会ですから、利己的な「自由」を防止するための国家の存立基盤もなくなった、〝個人の自由〟が社会によって保証される必要さえなくなった、〝自由〟を論じる必要のなくなった社会となることでしょう。

 マルクスとエンゲルスは、このいわゆる〝共産主義社会〟のことを〝自由の国〟と言いました。

このページのボリュームが少ない理由

このページが、タイトルを〈〝社会のあり方〟と〝自由と民主主義〟の現在・過去・未来〉と〝大上段に構えた〟わりには、あまりにもページ数が少なく、内容も断片的だと思われた方も多いかと思います。

 私は、〈〝社会のあり方〟と〝自由と民主主義〟の現在・過去・未来〉という大きなテーマだからこそ、その中心点と思われることだけを大雑把に提起して、これをヒントに、みなさんに熟考し、討論して頂きたく思い、あえて短いページと致しました。

 このページをご覧になった方は、是非、みなさんで〈〝社会のあり方〟と〝自由と民主主義〟の現在・過去・未来〉を熟考し、討論して、資本主義社会にかわる新しい生産様式の社会の〝自由と民主主義〟を自らの確固たる思想としてブラッシュアップして下さい。そして、資本主義社会に素晴らしい〝自由と民主主義〟があるかのように言うイカサマ師たちの「自由と民主主義」を、みなさんが、完膚なきまで粉砕していただけたら、これ以上の幸せはありません。

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次のページ2-1-4「資本主義社会の全体像」は、〝巧妙に作られた「画期的」な搾取の仕組みの社会〟である資本主義社会を丸裸にし、資本主義社会の歴史的使命・役割を明らかにして、〝資本主義社会に続く新しい生産様式の社会〟を展望します。必ず、みなさんの役に立つページになると思いますので、是非、お読み下さい。

*ちょっとボリュームがありますので、PDFファイルをダウンロードして、じっくりお読み頂ければありがたいです。

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