科学的社会主義の思想による、斎藤幸平氏の「ゼロからの『資本論』」の訂正
このページのPDFファイルはこちら
科学的社会主義の思想による、斎藤幸平氏の「ゼロからの『資本論』」の訂正
☆本来、結論だけを先に言うのは禁じ手なのかもしれませんが、みなさんがこのページを読みすすむなかで、〝青山が冒頭に言っていたのはこのことか〟と思い出していただくことが、マルクス・エンゲルス・レーニンの考えをよりよく理解していただくうえで大切なのではないかと思い、あえてこの「項」を設けさせていただきました。
斎藤氏の誤りの原因とその結果
①マルクスが導きの糸とした〝唯物史観〟とマルクス・エンゲルス・レーニンが目指した〝資本主義的生産様式を変える革命〟についての無知
②『資本論』の中で述べられている〝資本主義的生産様式にかわる生産様式〟を認知する能力の欠如
③誤った持論を展開するために、『資本論』のなかの「結合生産者(assoziierte Produzenten)」、「結合された生産者たち(assoziierten Produzenten)」という未来社会を表す「キーとなる言葉」から「アソシエーション」だけを取り出して、「Assoziation」を「自発的な結社」という誤り
★その結果、「ゼロからの『資本論』」は、これらが渾然一体となって、誤りを積み重ねながら、最後に、「どんな社会、どんな世界で暮らしたいのか。そのために、どのような選択をするのか。喫緊の課題ですが、私たちに今、そのはっきりとした答えはありません。」(P226)、と匙を投げてしまいます。
日本経済の長期停滞への無頓着
☆「ゼロからの『資本論』」は、「第1章」から「第2章」までは、ほぼほぼまともなことが書かれたいていますが、「第2章」の「賃上げより「労働日の短縮」という「項」では、「これほど働いているのに、バブル景気が弾けて以降、日本は長期の経済停滞から抜け出せずにいます。研究投資が削られ、イノベーションによって付加価値を生み出すことも難しくなっている。」(P81)と言い、「第3章」の「人間らしさを奪うテイラー主義」という「項」では「高度経済成長の時代が終わると、資本は労働者にそのような〝おこぼれ〟*を与えなくなります。労働者の立場はどんどん弱くなり、給料も下がっていき、労働時間も容易に延長されてしまうのです。」(P109)と述べていますが、その原因(?)として、「背景にあるのが、市場の飽和です。……(青山の略)……もう基本的には買い替え需要しかないわけです。その代わりとなるような新市場の開拓も、グローバル競争のもとでは難しい。」(P81)、という「資本」へのなかば同情的な文章が書かれているだけです。
*:「一時的には生産性が跳ね値上がり、業績アップの恩恵を、労働者たちも賃上げという形で受けとる」(P109)こと。
日本経済の長期停滞と労働条件の悪化の根本的な理由
☆故大瀧雅之東大教授は岩波新書『平成不況の本質』で「有効需要の不足は、国内投資が対外直接投資に呆れるほどの速度で代替されているからである」と述べ、「産業の空洞化が著しく進んだ時期」、「日本は失業と利潤を輸入し、雇用機会と資本を輸出していたわけである」と述べ、〝産業の空洞化〟により国内設備投資が減り労働需給が資本優位になったことが労働条件の悪化をもたらしたことを指摘し、工藤昌宏氏も『前衛』8月号(2013年か?)のインタビューで、「産業の空洞化」が最大の産業構造問題であることを指摘し、〝産業の空洞化〟によって産業構造が変化し、「経済循環構造の〝破断〟」がおこなわれたこと、「長期不況を打開するには」、「産業の空洞化を抑えることが必要」であることを述べています。
そして、深尾京司一橋大学名誉教授に至っては、『日経』(2013/11/01付け)「経済教室」で、「国内産業集積が重要 所得の海外流出を止めよ」として、経産省の14年度の重点政策である中小企業の海外展開支援を「正気の政策と言えるだろうか」と痛烈に批判しています。
★つまり、「産業の空洞化」こそが、日本経済の長期停滞と労働条件の悪化の根本原因です。マルクスを語るなら、このくらいのことはしっかりと言うべきでしょう。そして、資本主義的生産様式の日本で、国民の豊かな生活への展望がないのなら、「資本」に同情するのではなく、「資本」が富を国内に戻して雇用を創出するか、それが出来ないのであれば資本主義的生産様式の返上を「資本」に迫るべきでしょう。
※「産業の空洞化」についての詳しい説明は、ホームページ1「今を検証する」の各ページ、とりわけ、ホームページ1-4「70年代の始め以降に財界がすすめた政策」を、是非、参照して下さい。
斎藤氏は、『資本論』には未来社会の姿がないという
☆「第3章(イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む)」の最後の「項」の最終ページで、斎藤氏は「資本の専制と労働の疎外を乗り越え、労働の自立性と豊かさを取り戻す「労働の民主制」を広げていく必要があるのです。」(P128)、と述べて、マルクスのいう「結合労働の生産様式」の社会に急接近しますが、次の「第4章」の「『資本論』に編まれなかった晩年の思想」という「項」では、「アソシエートするとは、共通の目的のために自発的に結びつき、共同するという意味です。
……(青山の略)……
しかし、「どうやって」それを具現化し、「亀裂」を修復するのかについては、『資本論』には具体的に書かれていません。私も大学一年生の冬休みに意気揚々と『資本論』に挑んでみたものの、未来社会の姿について全然説明がなくて、肩透かしをくらったのを今でもよく覚えています。
なぜ書かれていないのか。その理由の一つは、『資本論』が〝未完〟だからです。」(P148)、と言って、自らの認知する能力の欠如をマルクスの『資本論』の「未完」に転化させます。
「大学一年生」の斎藤青年ならしょうがないかもしれませんが、『資本論』の中で述べられている、この〝資本主義的生産様式にかわる生産様式〟の社会を、認知する能力の欠如が現在もつづいていることが、斎藤氏の頭を混乱させ、最後には、「どんな社会、どんな世界で暮らしたいのか。そのために、どのような選択をするのか。喫緊の課題ですが、私たちに今、そのはっきりとした答えはありません。」(P226)、と匙を投げさせてしまうのです。
斎藤幸平氏が『資本論』から見落としたマルクス・エンゲルスの未来社会論
★マルクスは『資本論』第27章で以下のように未来社会について明確に述べている
「株式会社では、機能は資本所有から分離されており、したがってまた、労働も生産手段と剰余労働との所有者からまったく分離されている。このような資本主義的生産の最高の発展の結果こそは、資本が生産者たちの所有に、といってももはや個々別々の生産者たちの所有としてではなく、結合された(assoziierter)生産者である彼らの所有としての、直接的社会所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点なのである。それは、他面では、これまではまだ資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者(assoziierte Produzenten)たちの単なる機能に、社会的機能に、転化するための通過点なのである。」(マルクス経済学レキシコン⑤P17、『資本論』大月版④P557)
つまり、マルクス・エンゲルスは、資本主義的生産様式の次に来る社会が「資本が結合された(assoziierter)生産者の直接的社会所有としての所有に転化した社会」であり、「資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者(assoziierte Produzenten)たちの単なる機能に、社会的機能に、転化する」ことによって「資本」そのものが意味をなさない社会、つまり、資本のない社会になることを明らかにしています。
★そして、『資本論』第36章でも、以下のように未来社会について明確に述べています
「最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。これに反して、社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるにである。生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、これはサン・シモン主義者たちでさえも見抜いていたことである。他方、資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(『資本論』大月版⑤P783-784)
ここでマルクス・エンゲルスは、未来社会は「結合労働の生産様式」の社会だということを言い、未来社会では「生産手段が資本に転化」しなくなり、資本主義的生産様式が生み出す諸形態の一つである「利子生み資本」も存在しなくなる、つまり、未来社会では「資本」の支配がなくなるということを言っています。このように、マルクス・エンゲルスは未来社会について明確に語っています。
★そして、つけ加えると
☆マルクス・エンゲルスは、『資本論』第48章で、生まれたばかりの「結合労働の生産様式」の社会は「やはりまだ必然性の国」であり、この「必然性の国」を基礎として、「真の自由の国が始まる」ことを明らかにしています。ちょっと長くなりますが、『資本論』から見てみましょう。
「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たち(assoziierten Produzenten)が、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」(『資本論』第3巻 大月版 ⑤ P1050~1051)
より詳しくは、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。
斎藤氏のレーニンについての無知
☆斎藤氏は、「第5章」のタイトルを「グッバイ・レーニン」と付けて、社会の進歩を邪魔する人にへつらい、「「コミュニズム」に対するイメージ」という「項」で、「そのような懸念*を深刻に受けとめて、その上で、ソ連や中国を「社会主義」とみなす考え方を批判し、マルクス=レーニン主義に永久の別れを告げたいと思います。」(P157)とレーニンについての無知を曝けだします。
*:「そのような懸念」とは「独裁とか、処刑とか、飢餓とか、ネガティブなイメージ」(P157)に基づくマルクスの思想に対する懸念のこと
レーニンの革命の捉え方と社会主義社会の建設の仕方
★後ほど、詳しく取り上げますが、マルクスとエンゲルスの言う〝唯物史観〟とは、「現実の生の生産および再生産」のあり方が「歴史における究極の規定要因」であるという考え方で、この考え方を導きの糸として資本主義的生産様式の社会を見ると、そこには労働者階級と有産階級との矛盾と対立があり、社会的な生産諸力と私的資本主義的な生産諸形態との矛盾と対立が明らかになります。この矛盾は、労働者階級が政治権力をにぎって古い制度を支えている古い政治をくつがえし、国民が等しく豊になるような新しい労働の組織をうちたてることによって解消します。マルクスとエンゲルスの言う〝革命〟とは、そういう社会を実現することのことです。
☆この〝革命〟を、レーニンは〝人民革命〟と呼び、『ロシア共産党(ボ)第七回大会』で「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命」(レーニン全集第27巻P1351918年3月8日)、と述べています。〝革命〟がこのようなものであるから、マルクス・エンゲルスもレーニンも、〝革命運動〟のことを〝労働運動〟とも言っています。
★このような〝革命〟の見方をしていたレーニンは『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(1916年8月~9月執筆)で、
「一般に資本主義、とくこ帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに『理想的な』民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない。銀行をにぎらないでは、生産手段の私的所有を廃止しないでは、資本主義に打ちかつことはできない。しかし、ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには、全勤労大衆を、すなわち、プロレタリアをも、半プロレタリアをも、小農民をもひきいて、彼らの隊列、彼らの勢力、彼らの国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには、これらの革命的措置を実行することはできない。…………社会主義は、あらゆる国家の死滅へ、したがってあらゆる民主主義の死滅へ導く。しかし社会主義は、プロレタリアートの独裁を通じるよりほかには実現されない。ところでこのプロレタリアートの独裁は、ブルジョアジーすなわち国民のなかの少数者にたいする暴力と、民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる国事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつけるのである。」*(全集 第23巻P17~18)、と言っています。
☆レーニンの言う「プロレタリアートの独裁」とはこのようなもので、レーニンは「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織すること」と「全勤労大衆」の「国事参加を民主主義的に組織する」ことを目指していました。
マルクス=レーニン主義(科学的社会主義)とはこのような思想のことです、このような思想を失ってしまった「党」は、「共産党」と自称していても、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想(科学的社会主義の思想)の「党」ではありません。斎藤氏は、「グッバイ・レーニン」などと、味噌もクソも一緒にして軽薄なことを言うまえに、『レーニン全集』を読むのが大変ならば、せいぜい、青山のホームページ5-3「レーニンの考えの紹介」くらいは読んだらいかがでしょうか。の
*:青字ゴシックは原文中の表記であり、黒字ゴシックは青山が表記したものです。
斎藤氏の至極真っ当な考え
☆斎藤氏は、「第5章」の「民主主義の欠如」という「項」で、
「人々がソ連や中国の社会主義について否定的な印象を持つ大きな理由の一つが、民主主義の欠如です。「社会主義」と呼ばれる国々では、共産党の一党独裁がしかれており、それが深刻な被害をもたらしてきました。」(P159)と述べ、
「国有は「共有」とは限らない」という「項」で、
「国有化が社会主義だということになれば、誰も社会主義に魅力を感じないのは当然です。けれども、その内実は「国家資本主義」にすぎないのです。つまり、社会主義を掲げる際に、労働者たちの自由や権利を犠牲にしながら、国有化と近代化を推し進めただけのソ連や中国、その他の開発独裁国家を擁護する必要は、いっさいありません。
……(略)……資本主義を乗り越えるために必要なのは、搾取のない自由な労働のあり方を生み出すことなのです。」(P167)と述べています。これは、至極真っ当な考えです。
しかし、ここから先が間違っています
★しかし、ここから先が間違っています。
「学費も医療費も無料のドイツ」という「項」で、「経済の問題を、労働者たちが自分たち自身で変えていくのではなく、国家や政治権力で解決しようとするのが、「国家資本主義」の特徴なのです。
マルクスはその危険性に気がついていました。彼は、表層的な資本主義理解に陥ると、革命や選挙などによって政権を奪取し法律を変えればいいという「法的幻想」が生まれてしまう、と警告しています。ところが、現存した「社会主義」は、まさにそのような幻想に陥ってしまったのです。
マルクスによれば、法や制度よりも根幹にあるのが、商品や貨幣が人間を支配するような力を振るっているという現実そのものです。……(略)……
ここでまず確認しておきたいのは、マルクスにとって資本主義に抵抗するうえで重要なのは国家権力の奪取や政治体制の変革ではなく、経済の領域でこの物象化の力を抑えていくことなのです。そう言うと難しく感じるかもしれませんが、要するに、商品や貨幣に依存せずとも生きていけるように、日々の選択の余地を広げていくということです。」(P168~169)
また、斎藤氏は、同じく「第5章」の「ボトムアップ型の社会変革へ」という「項」でも、マルクスが「まだ若かった『共産党宣言』(1848年)の段階では、恐慌をきっかけとして国家権力を奪取し、生産手段を国有化していく「プロレタリアート独裁」を掲げていました。」(P179)と述べていますが、これも全くの認識不足としかいいようがありません。「プロレタリアート独裁」とは何か、「レーニンの革命の捉え方と社会主義社会の建設の仕方」の「項」をもう一度参照して下さい。
斎藤氏の文章の三つの誤りと難解な文章の解説
誤り(その1)
★「国家や政治権力で解決しようとする」ではなく、「国家や政治権力だけで解決しようとする」が正しい。
なお、斎藤氏も「第6章」の「パリ・コミューンの経験」という「項」で、『共産党宣言』の「ドイツ語版の序文(1872年マルクス・エンゲルス)」の「とりわけコミューンは、労働者階級は、できあいの国家機関をそのまま奪いとって、自分自身の目的のために動かすことはできない」〔中略〕ということを証明した。」という文章を紹介して国家権力を奪取することの必要性を認め、その国家権力を「パリ・コミューン」という「革命自治体」に改変することの大切さを語っています。
誤り(その2)
★斎藤氏は、「革命や選挙などによって政権を奪取し法律を変えればいいという」と言っていますが、科学的社会主義の理論(マルクス・エンゲルス・レーニンの理論)における“革命”は、先にレーニンの文章から引用した“人民革命”なので、「法律を変えればいい」などという誤ったものではありません。そして、「現存した『社会主義』」の誤りは、スターリンにより“人民革命”の思想が捨てられ、“人民”抜きの「共産党」の一党独裁支配が政治でも経済(企業)でも行われたためで、「幻想に陥ってしまった」などという甘い表現で済まされるものではありません。
マルクス・エンゲルスは「……さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである」(大月版『資本論』⑤ P1017)、と述べて、資本主義的生産様式において社会の支配者によって法律として神聖化されたものは、「政権を奪取し法律を変え」なければならないことを言っています。
斎藤氏の難解な文章の解説
☆「誤り(その3)」に行く前に、上記の斎藤氏の「マルクスによれば、法や制度よりも根幹にあるのが、商品や貨幣が人間を支配するような力を振るっているという現実そのものです。」という文章が非常に難解なので、斎藤氏の趣旨に沿って解説します。
★この文章を科学的社会主義の思想(マルクス・エンゲルス・レーニンの思想)に基づいて翻訳すると、
〈社会的、政治的および精神的生活過程一般は、物質的生活のための生産の仕方が土台──究極の規定要因──(斎藤氏の言う「根幹」)となって形成されます。このような考え方を〝唯物史観〟といいます。資本主義社会の生産の仕方は「資本」の持ち主に労働者が雇ってもらって労働者たちが生み出した価値の一部を賃金として受け取るという、「資本」が価値を生み出した労働者を搾取するという、「主客転倒」の生産の仕方なので、人間(労働者)が「資本」(モノ)に支配されるという「転倒」した社会が形成されます。この生産の仕方を土台にして、その上に「法や制度」が築かれます。〉ということを言っています。
☆このことをマルクスは「人間は、宗教では自分の頭の作り物に支配されるが、同様に資本主義的生産では自分の手の作り物に支配されるのである。」(大月版『資本論』② P811)と言って喝破しています。つまり、ここで科学的社会主義の思想の持ち主が知ってもらいたいこと、強調しなければならないことは、資本主義的生産様式が「商品や貨幣に人間を支配するような力を振るわせる(与える)」という「転倒」した生産の仕方の社会だということです。
誤り(その3)
★斎藤氏は「国家権力の奪取や政治体制の変革ではなく、経済の領域でこの物象化の力を抑えていくこと」、と「国家権力の奪取や政治体制の変革」と「経済の領域でこの物象化の力を抑えていくこと」とを、二者択一に捉えるという誤りを犯しています。
資本主義社会は、資本主義的生産様式の社会が制度化され、資本主義的生産様式に基づく生産の仕方が「経済の領域での物象化」の原因なのだから、労働者階級が政治権力をにぎってこの生産の仕方を支えている「制度と政治」を変えるとともに、労働者階級が企業の運営権をにぎって社会的生産にみあう新しい労働の組織をつくりあげることこそが必要かつ十分な条件です。資本主義的生産様式の社会のままで、「商品や貨幣に依存せずとも生きていけるように、日々の選択の余地を広げていく」ということは、そのこと自体は重要ですが、資本主義的生産様式の社会を変えようともせず賃金闘争だけにうつつを抜かすようなもので、力の強い、社会を支配している「資本」との、負けのわかった、イタチごっこをしているのと同じです。
斎藤氏による「アソシエーション」の一人歩き
☆ドイツ語のAssoziation(アソシエーション)には、結合・結社・連合・協会等の意味があるそうですが、斎藤氏は、「第5章」の「国有化よりアソシエーションが早かった」という「項」で、Assoziationを「アソシエーション(自発的な結社)」と表現して、「物象化の力を抑えるための社会運動」をマルクス「アソシエーション」と呼んだと言います。(P171)そして、斉藤氏によれば、「人間がモノに振り回され、支配されるようになる。この現象をマルクスは『物象化』と」呼んだ(P42)そうですから、「労働組合、協同組合、労働者政党、どれもみなアソシエーション」(P171)になってしまい、「物象化と脱商品化という視点から考えると、福祉国家にはマルクスの考えていたビジョンと重なるところがあります。」(P172)という結論に落ち着きます。
なお、斉藤氏は、「福祉国家にはマルクスの考えていたビジョンと重なるところが」あると言いますが、参考までに、マルクスは『資本論』で「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。」(大月版⑤ P1090)と述べて、資本主義的生産様式の基での「福祉国家」への誤った幻想への警告をおこなっています。
☆続けて斎藤氏は、「ベーシックインカムという『法学幻想』」という「項」で、ベーシックインカムについて、「けれども、こうしたやり方は生産のあり方には手をつけないため、資本が持つ力をよわめることはできません。……(略)……貨幣の力から自由になるためには、貨幣なしで暮らせる社会の領域を、アソシエーションの力によって増やすしかないのです。」(P175)と言います。
なお、この場合の「アソシエーション(自発的な結社)」とは「自発的な相互扶助のシステム」とのことです。
しかし、「ベーシックインカム」は「生産のあり方には手をつけない」から「資本が持つ力」をよわめないのでダメだと斎藤氏は言いますが、資本主義的生産様式のままの社会で、労働組合や協同組合などの「自発的な相互扶助のシステム」が、いかに奮闘努力しても、社会主義革命への指向がなければ、生活防衛上の意義はあっても、「資本が持つ力をよわめ」て資本主義社会を社会主義社会に変える要素とはなりません。これは、大事な点です。
★同じく「第5章」の「ピケティとMMTの死角」という「項」で、斎藤氏の「アソシエーション(自発的な結社)」は飛び跳ねて質的な変化をします。「アソシエーションに求められるのは、労働者たちが、何に投資をするか、どうやって働くか、などを自分で決められるような、生産の実権を握るということです。」(P178)と、「アソシエーション」が「自発的な結社」による生活防衛のシステムから「生産の実権を握る」という資本主義的生産様式を克服した「結合生産者」に転身します。
斎藤氏は、このように、これまでの「自発的な結社」の考を捨て、「ベーシックインカム」(BI)や「ピケティ」や「現代貨幣理論」(MMT)とうい「改良主義」を打ち負かすために、〝革命理論に帰依〟します。
☆しかし、カエルの子はカエルなのでしょうか?舌の根も乾かぬうちに、『資本論』について、「革命の本であるにもかかわらず、重視されるのは資本主義内部でのアソシエーションによる改良なのです。」(P179)などと、とんでもないことを言う始末です。
ご承知の通り、マルクスもエンゲルスも、「改良」だけではためだ、資本主義的生産様式を変える運動をしなければ敗北すると、『資本論』ででも『賃金・価格・利潤』ででも、口を酸っぱくして諭していることです。*
*:詳しくは、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」及びホームページ4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」等を、是非、参照して下さい。
なぜ、〝Assoziation〟は斎藤氏によって平凡な単語になってしまったのか
☆なぜ、〝Assoziation〟は斎藤氏によって平凡な単語になってしまったのでしょうか?
それは、マルクス・エンゲルスが『資本論』の中で、未来社会とは「結合労働の生産様式」の社会だということを言い、未来社会では「生産手段が資本に転化」しなくなり、資本主義的生産様式が生み出す諸形態の一つである「利子生み資本」も存在しなくなる、つまり、未来社会では「資本」の支配がなくなるということを言っていることを学生時代から、現在に至るまで、残念ながら、理解することができず、未来社会の生産者である──結合生産者(assoziierte Produzenten)、結合された生産者たち(assoziierten Produzenten)──から、「assoziierte、assoziierten」と「Produzenten」とを分離し、〝Assoziation〟を意味のない平凡な単語にしてしまったかからです。
だから、「アソシエーション」の意味を「自発的な結社」に収れんさせた斎藤氏は、マルクス・エンゲルスが『資本論』等で未来社会との関連で〝Assoziation〟をどのような使い方をしているか、全く述べることができません。この「ゼロからの『資本論』」での斉藤氏の〝Assoziation〟誤った使い方によって、マルクスの未来社会についての〝核心〟となる考えが、読者に誤って理解されるとしたら残念極まりません。
マルクス・エンゲルスは『資本論』等で〝Assoziation〟をどのように使ったのか
☆マルクス・エンゲルスは『資本論』等で〝Assoziation〟をどのような単語と一緒に、どのような文脈の中で使ったのか、一緒に見ていきましょう。
『共産党宣言』の中で
★マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』(1848年)で、「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展がすべての人々の自由な発展のための条件であるような一つの結合(eine Assoziation)社会が現れる。」(マルクス経済学レキシコン④P249)と述べ、エンゲルスは『反デューリング論』(1878年)で「社会的に作用する諸力は、自然力とまったく同じように作用するのであり、われわれがそれらを認識せず、考慮に入れないあいだは、盲目的に、強力的に、破壊的に作用する。……(略)……。だが、いったんその本性を把握すれば、結合した生産者たち(assoziierten Produzenten)の手で、これらの生産力を悪魔的な支配者から従順な召使いに変えることができる。」(マルクス経済学レキシコン④P369)と述べています。
この場合の「結合社会」とは資本主義的生産様式を克服した社会のことで、「結合した生産者たち」とは、資本主義的生産様式を克服した労働者階級のことです。
『資本論』の中で
☆ここでは、先の「斎藤幸平氏が『資本論』から見落としたマルクス・エンゲルスの未来社会論」の「項」でお示した「大月版『資本論』④」(P557)の文章を含む、重要な、文章を抜粋しました。
★マルクス・エンゲルスは『資本論』で、「株式会社では、機能は資本所有から分離されており、したがってまた、労働も生産手段と剰余労働との所有者からまったく分離されている。このような資本主義的生産の最高の発展の結果こそは、資本が生産者たちの所有に、といってももはや個々別々の生産者たちの所有としてではなく、結合された(assoziierter)生産者である彼らの所有としての、直接的社会所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点なのである。それは、他面では、これまではまだ資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者(assoziierte Produzenten)たちの単なる機能に、社会的機能に、転化するための通過点なのである。」(マルクス経済学レキシコン⑤P17、大月版『資本論』④P557)と述べ、「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。……資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合(Assoziierte)生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。」(大月版『資本論』④ P561~562 )と述べています。
☆オレンジ色の文章に着目して下さい。オレンジ色の文章に着目し、そして、「斎藤幸平氏が『資本論』から見落としたマルクス・エンゲルスの未来社会論」の「項」でお示した『資本論』(大月版⑤P783-784)の文章と併せて『資本論』を虚心坦懐に読めば、マルクスとエンゲルスは、未来社会について、次のように明確に述べているのです。
《資本主義的生産様式の次に来る社会は「資本が結合された(assoziierter)生産者の直接的社会所有としての所有に転化した社会」であり、「資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者(assoziierte Produzenten)たちの単なる機能に、社会的機能に、転化する」ことによって、「資本」そのものが意味をなさない社会、つまり、資本のない社会になる。》
なお、青山は、上記の大月版『資本論』④」( P561~562 )で「資本主義的株式企業」が「対立が消極的に」「廃止されている」ということには同意できませんが、「資本主義的株式企業」も「協同組合工場」も同様な「過渡形態とみなしている」ということは、斎藤氏も注目すべきでしょう。
このように、マルクスとエンゲルスは『資本論』等で〝Assoziation〟と言う言葉を未来社会の生産様式と結びつけて使っているのです。
おまけ
☆なお、『共産党宣言』の訳文には、同一の文章が「結社」と訳されているものと「結合」と訳されているものがあるので紹介します。
「工業の進歩の無意志無抵抗な担い手はブルジョア階級であるが、この進歩は、競争による労働者の孤立化の代わりに、結合による労働者の革命的団結を作り出す。」(岩波文庫、大内兵衛・向坂逸郎訳P56)
「ブルジョアジーをその無意志、無抵抗な担い手とする産業の進歩は、競争による労働者の孤立化の代わりに、結社(連合)による労働者の革命的団結をもたらす。」(マルクス経済学レキシコン④P227と⑤P9及び大月版『資本論』②P995~996)
★また、『共産党宣言』では、コミューンを「selbst verwaltende Assoziationen(独立に管理された協会(連合又は結合体?))」と述べ、マルクス経済学レキシコン④(P201)ではそれを「自治団体」と訳しており、エンゲルス『共産主義者同盟の歴史によせて』で、「国際労働者協会」を「Internationalen Arbeiterassoziation」書いています。
私たちは、これまで見てきたように、〝Assoziation〟という単語は、マルクス・エンゲルスによって〈結合生産者(assoziierte Produzenten)〉又は〈結合された生産者たち(assoziierten Produzenten)〉という結びつきで使われたとき、未来社会を表す特別な意味をもつ単語になるということを、しっかりと、胸に刻んでおきましょう。
斎藤氏が自ら創作した「唯物史観」によるマルクスの〝唯物史観〟の歪曲
その1
★斉藤氏は、「第6章」の「『唯物史観』からの転向」という「項」で、「一般的なマルクス理解によれば、生産力を発展させていくことが、歴史をより高い段階へと進めていく原動力だとされています。これを「唯物史観」とよびます。」と言い、「このような歴史観は」、「先進国が、世界で最も進歩的な地域であるという主張に結びついてしまい」、「植民地支配が正当化されてしまうことになりかねません。「唯物史観」が人類差別の原因になってしまうわけです。」(P193)と述べて、三段跳び論法によって、「唯物史観」を人類差別の原因にしてしまいます。
その2
★続けて斉藤氏は、「そのような歴史観と決別する」ようになったというマルクスの「1881年に書かれたロシアの女性革命家ヴェラ・ザスーリチに宛てて執筆した手紙の草稿」を引用し、その結論として、「つまり、資本主義を無理矢理導入して共同体を破壊したりする必要はない。そのような外的な強制力なしに、ロシアの共同体は西欧資本主義の果実をうまく取り込みさえすれば、自分たちの力で、コミュニズム(=「近代社会が指向している経済制度」)を打ち立てることができる」とマルクスは言っていると述べ、「このような発言は、マルクスがヨーロッパ中心主義の進歩史観を捨て、自らの歴史観を大きく変えたことを示唆しています。」(P194~195)と言います。
これらを踏まえ、斉藤氏は、「ここで、共同体社会が、伝統に依拠した定常型の持続可能な社会であったことを思い出してください。ということは、西ヨーロッパの社会もそのような社会に移行する必要があると、晩年のマルクスは考えていたのです。
……(略)……つまり、晩年のマルクスのコミュニズム像は、「脱成長コミュニズム」になっていくわけです。」(P196~197)と論理を大ジャンプさせます。
マルクス・エンゲルスの唯物史観と斎藤氏の「その1」への回答
★エンゲルスは、1890年の「ヨーゼフ・ブロッホ」で「唯物史観によれば、歴史における究極の規定要因は、現実の生の生産および再生産です。それ以上のことは、マルクスも私もかって主張したことがありません。いまこれを、経済的要因が唯一の規定的要因である、というふうにねじまげる人があるならば、その人は、あの命題を無意味な抽象的な不合理な空語にかえてしまうのです。」と言い、1894年の「ボルギウスあてのエンゲルスの手紙」で「われわれが社会の歴史の規定的土台とみなす経済的諸関係とは、一定の社会の人々が彼らの生活資料を生産し、また(分業があるかぎるは)生産物を相互に交換する、その仕方をいうのです。」(マルクス経済学レキシコン⑤P361)と述べています。
☆このように、〝唯物史観〟とは、「社会の歴史の規定的土台」・「歴史における究極の規定要因」として「現実の生の生産および再生産」・「社会の人々の生活資料の生産」の仕方を導きの糸として研究をおこなうための〝史観〟です。だからマルクスは、資本主義的生産様式とその基で成り立っている社会を全面的に暴露した『資本論』で、資本主義を発展させるために必要な「生産者と生産手段との根底的な分離」の過程が典型的であるがゆえに、イギリスを例にとって、「本源的蓄積」の歴史の研究を深めました。
★その「本源的蓄積」を研究した「章」に関して、マルクスは、1877年末に書かれた『オチェーチェストヴェンヌィエ・ザピースキ』編集部への手紙で、次のように述べています。
《本源的蓄積に関する章は、西ヨーロッパにおいて、資本主義的経済秩序が封建的経済秩序の胎内から生まれでてきたその道をあとづけようとだけするものです。したがって、それは、生産者をその生産手段から分離させることによって生産者を賃労働者(ことばの近代的な意味でのプロレタリア)に、生産手段の所有者を資本家に転化させた歴史的運動を、叙述しています。……(青山の略)……「この発展全体の基礎は、耕作者の収奪である。これが根底的に遂行されたのは、まだイギリスにおいてだけである。……(本文中の略)……だが、西ヨーロッパのすべての国もこれと同一の運動を経過しつつある」等々(『資本論』、フランス語版、315ページ、青山の注──フランス語版は1875年出版)。……(青山の略)……、西ヨーロッパでの資本主義に生成にかんする私の歴史的素描を、社会的労働の生産諸力の最大の飛躍によって人間の最も全面的な発展を確保するような経済的構成体に最後に到達するために、あらゆる民族が、いかなる歴史的状況のもとにおかれていようよも、宿命的に通らなければならない普遍的発展過程の歴史哲学的理論に転化することが、彼(「わが批評家」のこと──青山の注)には絶対にひつようなのです。しかし、そんなことは願いさげにしたいものです。》(マルクス経済学レキシコン⑤P271~273)※緑色の文章は、のちに意味を持ちますので、青山が表記したものです。
☆このように〝唯物史観〟は〝唯物史観〟を「宿命的に通らなければならない普遍的発展過程の歴史哲学的理論に転化すること」を「願いさげ」にする思想であり、1877年に「そんなことは願いさげにしたいものです」と言っているマルクスによる〝唯物史観〟に基づく『資本論』での資本主義的生産様式の解明が、なぜ、斉藤氏によって、「先進国が、世界で最も進歩的な地域であるという主張」*と結びつけられ、「植民地支配が正当化され」、「『唯物史観』が人類差別の原因」にされてしまうのでしょうか!?
斎藤は、私のような素人と違って、「マルクス経済学レキシコン」など、隅から隅までめくって見ているはずなのですが?
*「日本共産党第29回大会決議」には、残念ながら、上記に類する記載があります。詳しくは、ホームページ3-2-5「“科学的社会主義の思想”とは何か…「日本共産党第29回大会決議」を検証する…共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。」を参照して下さい。
斎藤氏の「その2」への回答
★斉藤氏は、マルクスの1881年に書かれたザスーリチ宛ての手紙の草稿を持ち出して、マルクスの〝唯物史観〟を「資本主義を無理矢理導入して共同体を破壊したりする」「ヨーロッパ中心主義の進歩史観」なるものに仕立て上げたうえで、「そのような歴史観と決別」して、「自らの歴史観を大きく変えた」と言いますが、ザスーリチがマルクスに手紙を送ったのは1881年2月16日です。しかし、フランス語版の『資本論』は、それより6年もまえの、1875年に出版されており、上記の『オチェーチェストヴェンヌィエ・ザピースキ』編集部への手紙は1877年末頃に書かれています。そして、「草稿」ではない、『ザスーリチあてのマルクスの手紙』では、上記の緑色の文章を含み、次のように書かれています。
「資本主義制度の根本には、それゆえ、生産者と生産手段との根底的な分離が存在する。……この発展全体の基礎は、耕作者の収奪である。これが根底的に遂行されたのは、まだイギリスにおいてだけである。……だが、西ヨーロッパのすべての国もこれと同一の運動を経過しつつある」(『資本論』、フランス語版、315ページ)
だから、この運動(「生産者をその生産手段から分離させることによって生産者をプロレタリアに、生産手段の所有者を資本家に転化させた歴史的運動」のこと──青山の注)の「歴史的宿命性」は、西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されているのです。」(マルクス経済学レキシコン⑤P277、なお、文中の青色の文字は青山が付けたものではありません)
☆先ほど見たように、〝唯物史観〟は「宿命的に通らなければならない普遍的発展過程の歴史哲学的理論に転化すること」を「願いさげ」にする思想ですから、「資本主義を無理矢理導入して共同体を破壊したりする」ような考えは「願いさげ」、もっぱら「西ヨーロッパ諸国に明示的に限定」して『資本論』の「本源的蓄積」の研究はなされており、「ヨーロッパ中心主義の進歩史観」などと言うのは、お門違いです。
「ザスーリチ宛ての手紙」と『共産党宣言』の序文で
マルクスとエンゲルスが言っていること
☆続けて、『ザスーリチあてのマルクスの手紙』は、次のように述べています。
「こうしたしだいで、この西ヨーロッパの運動においては、私的所有の一つの形態から私的所有の他の一つの形態への転化が問題となっているのです。これに反して、ロシアの農民にあっては、彼らの共同所有を私的所有に転化させるということが問題なのでしょう。
こういうわけで、『資本論』に示されている分析は、村落共同体の生命力についての賛否いずれの議論にたいしても、論拠を提供してはいません。しかしながら、私はこの問題について特殊研究を行ない、しかもその素材を原資料のなかに求めたのですが、その結果として、次のことを確信するようになりました。すなわち、この村落共同体はロシアの社会的再生の拠点であるが、それがそのようなものとして機能しうるためには、まずはじめに、あらゆる側面からこの共同体におそいかかっている有害な諸影響を除去すること、ついで自然的な発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう、と。」
★このように、マルクスは、西ヨーロッパの社会とロシアの農民が直面している「現実の生の生産および再生産」・「社会の人々の生活資料の生産」の仕方が異なることを述べ、村落共同体がロシアの社会的再生の拠点として機能しうるためには、「彼らの共同所有を私的所有に転化させず」に共同体として発展する条件を確保する必要があることを述べています。
★そして、『共産党宣言』のエンゲルスの「1890年ドイツ語版への序文」には、ヴェラ・ザスーリチによって1882年にジェネヴァで出版された『共産党宣言』のロシア語訳の1882年1月21日付けのマルクスとエンゲルスの連名の序文が載っており、そこには次のように書かれています。
「『共産党宣言』の課題は、近代ブルジョア的所有の不可避的に迫りつつある崩壊〔没落〕を布告することであった。だがロシアでは、目まぐるしいほど急速に繁栄しつつある資本主義〔的体制〕といまようやく発達しつつあるブルジョア的土地所有と並んで、土地の過半が農民の共有となっているのをわれわれは見出す。そこで次のことが問題となる。ひどく分解してはいるが太古からの土地所有の一形態〔原生的共有の形態〕であるロシアの農民共同体は、共産主義的共有のヨリ高い形態〔土地所有のヨリ高い共産主義的形態〕に直接に移行しうるであろうか?それとも反対に、そのまえにそれは西ヨーロッパの歴史的発展において行われたと同じ崩壊過程を通過しなければならないであろうか?
この問題に対して今日可能な唯一の解答は、次の如くであろう。もしロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命への合図となり、その結果両者がたがいに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点として役立つことができる。」
★これらの文章で、マルクスとエンゲルスが言っていることは、ロシアの農民共同体がロシアの社会的再生の拠点として機能しうるためには、「彼らの共同所有を私的所有に転化させず」に共同体として発展する条件が確保される必要があり、目まぐるしいほど急速に繁栄しつつあるロシアの資本主義のもとでのロシアの革命と西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命とがたがいに補いあって勝利するならば、現在のロシアの土地共有制が土地所有のヨリ高い共産主義的形態への発展の出発点として役立つと、言うことです。
☆このように、斉藤氏は、「西ヨーロッパの社会もそのような社会に移行する必要があると、晩年のマルクスは考えていたのです。」と言い「晩年のマルクスのコミュニズム像は、「脱成長コミュニズム」になっていくわけです。」と言っていますが、マルクスもエンゲルスもそんなことは一言も言っていません。
★なお、エンゲルスはパウル・エルンストあての手紙で、「唯物論的方法は、それを歴史研究における導きの糸として取扱わずに、史実を好きなように裁断するための出来あがった型紙として扱うなら、その反対物に転化する。」(マルクス経済学レキシコン⑤P321)と言っていまが、残念ながら、斉藤氏はエンゲルスの指摘を上回る〝駄作〟を仕上げてしまったようです。そして、マルクス・エンゲルスが『資本論』で「ちきゅうの私的所有」を批判し「これ(地球──青山の注)を改良して次の世代に遺さなければならない」と言うと、マルクスは「定常型経済社会」・「脱成長コミュニズム」を「構想」していたと斎藤氏は言います。しかし、それは、マルクスの「構想」ではなく斎藤氏の「夢想」・「願望」以外の何ものでもないでしょう。
斎藤氏の思い描く「社会主義」と
マルクス・エンゲルス・レーニンの革命思想
☆斎藤氏は、最終章である「第6章」の「パリ・コミューンの経験」という「項」で、「パリ・コミューンが大事なのは、社会主義の欠点としてしばしば言われるような、官僚支配が画一性を押し付け、自由や民主主義を犠牲にするという批判が、まったく当てはまらないような社会を実現したからです。」(P203)、と述べています。しかし、このような批判が「当てはまる」ような社会は、マルクス・エンゲルス・レーニンが思い描いた〝社会主義〟社会とは真逆の社会です。彼らがめざした社会主義社会とは、「結合労働の生産様式」の社会のことで、労働者階級を中心とする人民が社会を動かす主役の社会あり、「レーニンの革命の捉え方と社会主義社会の建設の仕方」という「項」で明らかにしたように、「全人民の民主主義的管理を組織することなしには」実現出来ない社会なのです。
★斎藤氏が的外れに批判している社会は、人民革命であるロシア革命をスターリンが破壊してスターリンが支配するエセ「共産党」が国家を横取りした結果生まれた社会で、マルクス・エンゲルス・レーニンの革命思想を学び損ねたエセ「共産党」がスターリンから学んで作り上げた社会で、マルクス・エンゲルス・レーニンの革命思想とは対極にある社会です。
マルクスとエンゲルスが
「パリ・コミューン」から学んだことと
斎藤氏が誤りを深めたこと
★なお、斎藤氏は上記の「項」で、「この出来事(「パリ・コミューン」のこと──青山の注)の経験が、マルクスのコミュニズムについての考を確実に変えていきます。」と述べて、『共産党宣言』の「ドイツ語版の序文(1872年マルクス・エンゲルス)」の「パリ・コミューンにおいて得られた実践的経験に照らしてみれば、この綱領は、今日ではところどころ時代おくれになっている。とりわけコミューンは、『労働者階級は、できあいの国家機関をそのまま奪いとって、自分自身の目的のために動かすことはできない』〔中略〕ということを証明した。」という文章を紹介し、「ここでは、……(青山の略)パリ・コミューンの経験を踏まえて、真に平等で、民主的な社会を作るためには、国家権力を使う以外の道を試す必要があると、強調されるようになっているのです。」、と述べて、自らが二重の誤りをしているのに、マルクスとエンゲルスが頭の中に何も詰まっていない人たちででもあるかのように描いています。
☆まずはじめに、上記の「労働者階級は、できあいの国家機関をそのまま奪いとって、自分自身の目的のために動かすことはできない」という文章は、素直にそのまま読めばいいだけです。つまり、奪いとった国家機関は自分自身の目的を果たすような、「できあい」ではない、新たな国家機関に徹底的に置き換えなければならないということを言っているのであって、国家権力を使わずに、「国家権力を使う以外の道を試す必要がある」などと言っているのではありません。そして第二に、マルクスもエンゲルスも「結合労働の生産様式」の社会の実現をめざしている訳ですから、そのためには①人民が国家権力を掌握して「資本」が力を持つことの出来ないような法秩序をつくり、同時に、②人民が社会と企業を運営する結合労働の生産システムを作り上げなければならないことは、重々承知で、斎藤氏のような稚拙な、あれかこれかの考など、持ってはいません。
★そもそも、「経済的生産と交換の支配的な様式」、つまり、「生産様式」を変えるためには、同時に、そのうえに築かれた「その時期の政治的並びに知的歴史」の変革が必要だと考える〝唯物史観〟を1845年の春には完成させていたマルクス(岩波文庫、『共産党宣言』のエンゲルスの〈1888年英語版への序文〉、大内兵衛・向坂逸郎訳を参照)が、1871年の「パリ・コミューン」の経験によって、この〝唯物史観〟を実感しこそすれ、〝唯物史観〟を変える必要などまったくありません。
★なお、国家権力を奪取するということに関していえば、斎藤氏自身も、その必要性を認め、国家権力を「パリ・コミューン」という「革命自治体」に改変することの大切さを認めているではありませんか。
斎藤氏の空想と、味噌とクソの混合と、早とちり
★斎藤氏は、次の「古くて新しい『コミューン』」という「項」で、「パリ・コミューンという、突如、現代資本主義の中心に現れた〝ポスト資本主義〟の姿を、マルクスはロシアの前資本主義社会に再発見したのです。」(P206)と述べて、空想が止まりません。(空想)
☆このページの〈「ザスーリチ宛ての手紙」と『共産党宣言』の序文でマルクスとエンゲルスが言っていること〉という「項」において、マルクスとエンゲルスが、連名の『共産党宣言』のロシア語訳の序文(1882年1月21日付け)で、「太古からの土地所有の一形態であるロシアの農民共同体」が「土地所有のヨリ高い共産主義的形態への発展の出発点として役立つ」可能性について述べている文章を見られた方は、マルクスとエンゲルスは、「〝ポスト資本主義〟の姿をロシアの前資本主義社会に再発見した」のではなく、「ロシアの農民共同体がヨリ高い共産主義(〝ポスト資本主義〟)への発展」の可能性に言及していたことを確認できると思います。斎藤氏の「空想」をマルクスに押しつけるのはやめるべきです。
★そして、斎藤氏は、なぜか、「国家と官僚が中心となって近代化を推し進めるソ連や中国」(P206)の話を持ちだして、マルクスの思想を「国家による強い統制を拒否しながら資本主義の廃絶を目指す」「アナーキスト・コミュニズム」だと言い、「国家が中心となるソ連型「社会主義」とは大きく異なる」と言います。(味噌とクソの混合)
さらに、斎藤氏は、次の「労働者協同組合のポテンシャル」という「項」で、マルクスが『フランスの内乱』で「協同組合的生産」こそが「コミュニズムでなくてなんであろうか?」と言っているのに、我が意を得たりとばかりに、自説を展開して、労働者協同組合によって生産が社会化され、その連合体が「お互いに生産調整を行う」ことによって、「資本主義に特徴的な、無計画の分業に基づいた商品生産のあり方」を解消するのが、「アソシエーション社会の目標」(P210)だと言います。(早とちり)
斎藤氏は、味噌もクソも一緒にしない方がいい
★斎藤氏の「空想」についてはすでに解決したので、「味噌とクソの混合」について見て、次に、「早とちり」について、見ていきましょう。
☆「ソ連や中国」はマルクス・エンゲルス・レーニンがめざした「結合労働の生産様式」の社会でないことは、「レーニンの革命の捉え方と社会主義社会の建設の仕方」という「項」と「斎藤氏の思い描く「社会主義」とマルクス・エンゲルス・レーニンの革命思想」という「項」とで明らかにしたとおりです。
☆斎藤氏が「味噌とクソ」を一緒にして「国家による強い統制」を否定するのは誤りです。 マルクスもエンゲルスもレーニンも、〝国家による「資本」の強い統制〟どころか、企業を支配し労働者を搾取して大きくなる「資本」が法的にも、実態においても存在しない社会を目指しているのに、マルクスが「国家による強い統制を拒否しながら資本主義の廃絶を目指す」「泥」(中国の空想上の生き物)のようなアナーキストだなどというのは、あまりにも、失礼です。
斎藤氏は、文章はよく読んだほうがいい
☆つぎに、マルクスが『フランスの内乱』で「協同組合的生産」が「コミュニズムでなくてなんであろうか?」と言っているのは、よく読んでいただけばお分かりのとおり、「協同組合」が「一つの」「連合体」として、「資本主義的システムに取って代わる」ことで「結合労働の生産様式」の社会になり、その結果、生産の「統制」を獲得し、「資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣を終わらせる」ことができるならば、これこそは、「『可能な(夢なんかじゃない──青山の注)』コミュニズムでなくてなんであろうか?」とコミュニズムの可能性について言及しているのです。
★斎藤氏が主張するように、労働者協同組合によって生産が社会化され、その連合体が「お互いに生産調整を行う」ことによって、「資本主義に特徴的な、無計画の分業に基づいた商品生産のあり方」を解消する、それが「アソシエーション社会の目標」(P210)だ、などということを言っているのではありません。
☆言うまでもなく、「資本主義的生産」は資本を大きくするために、一方で労働者を搾取して消費を制限しておいて、もう一方で信用によって「資本の流通過程を短縮」したりインフレにして資産価値を高くしたりして消費する能力を高め生産を増やし、帳尻が合わなくなって、最後に、「宿命」である周期的痙攣を起こさざるをえません。これを「終わらせる」ということは「資本主義的生産」を終わらせるということです。
★「資本主義的生産」を終わらせ、「結合労働の生産様式」の社会が実現したら、「労働者協同組合」のような民主的な企業経営を担うことのできる組織が「結合労働の生産様式」での主役として決定的な役割を果たさなければならないし、現に「労働者協同組合」のような組織があるということは、「結合労働の生産様式」の社会の実現・コミュニズムの実現は、夢なんかじゃない、「可能」なことなんだと、マルクスは言っているのです。
突然の「結合労働の生産様式」の社会の出現
★斎藤氏は、次の「『使用価値経済』への大転換のために」という「項」で、資本主義的生産様式の社会が、「労働者協同組合や労働組合によって私的労働を制限して」「使用価値を重視する社会へと転換する」(P211)と述べ、突如、「労働者自身が何をどのように作るかを決められるようになれば」(P212)、と言って、資本主義的生産様式を乗り越えた「結合労働の生産様式」の社会での夢を語り始めます。
〝資本主義的生産様式〟の国で
〝結合労働の生産様式〟の社会など実現できない
☆資本主義的生産様式を国家が法律で支えている国では、「労働者協同組合や労働組合」などがどんなに逆立ちしても、基本的に、労働者が作った「商品」は「商品資本」となり、それを売るこよによって、「貨幣資本」という新たに拡大された「資本」が「実現」され、その拡大された「資本」を「投資」することによって経済を発展させるという資本主義の仕組みが社会を覆い尽くしていて、「労働者自身が何をどのように作るかを決められる」という〝結合労働の生産様式〟の社会になど、なりようがありません。
☆そんなことは起こりえませんが、万万が一、資本主義のもとで労働者協同組合だけが存在するという、そんな、奇妙な、あり得ない、世の中になったとすれば、労働者協同組合は労働者を搾取しないわけですから、労働者協同組合は「資本」を増やすことができず、斎藤氏の理想とする「定常型経済社会」を維持させる以外に道はありません。このとき、やっと、ここで、斎藤氏の理想が実現することになります。
斎藤氏の「市場」と「いちば」の混乱
★そして、斎藤氏は、次の「民営化ならぬ『市民営化』へ」という「項」で、「資本主義以前の社会においても、市場はあったのですから、別に市場を完全に否定する必要はありません。資本主義の特徴は、商品がすべてを覆ってしまい、ただただ資本を増やすために、人間や自然を収奪していくことにあります。」、とマルクス主義者らしからぬことを言います。
資本主義〝市場〟を〝いちば〟に変える
☆資本主義社会での「市場」とは、労働者階級から搾り取った富を「資本」に「実現」するための場です。〝結合労働の生産様式〟の社会になって、「資本」そのものがなくなれば、価値実現の場としての「市場」も消滅します。「別に市場を完全に否定する必要はありません」などという問題ではありません。価値実現の場としての「市場」は消滅して、等価交換の場としての〝いちば〟が復活するのです。
またまた味噌もクソも一緒にし、
最後には匙を投げてしまった斎藤氏
★最後に、斎藤氏は、「社会の富があふれだす」という「項」以降のページで、「経済成長を目的としない脱成長型社会」(P217)とか、「経済成長偏重を根本的に是正し、脱成長型経済に転換していく」(P222)とか、「普通の経済学者であれば、環境の持続可能性と市民の生活改善を両立させるためには、かつてないほどの技術革新と経済成長が必要だ、と言うでしょう。」(P225)、などと言うとともに、「結局、未完のまま終わった『資本論』は、未来社会の姿や、そこにたどり着くための道程を描き切っていません。」(P221)、と述べるとともに、「では、どんな社会、どんな世界で暮らしたいのか。そのために、どのような選択をするのか。喫緊の課題ですが、私たちに今、そのはっきりとした答えはありません。」、と身も蓋もないことを言う始末です。
ゼロから『資本論』を学ぼうとする人に言うべき斎藤氏の義務
☆まずはじめに明らかにしておかなければばらないのは、資本主義的生産様式のエンジンである「資本」の「目的」は「経済成長」ではなく「自己増殖」です。そして、資本主義社会はマルクス・エンゲルスが『資本論』で明らかにしたように、「資本」の「自己増殖」のための「拡大再生産」なしでは──大海を泳ぐマクロのように走り続けることなしには*──、存続できない社会です。つまり、資本主義的生産様式の社会を維持するためには「経済成長」が必要なのです。だから、「自己増殖」の可能性の低いところや可能性のないととろには「投資」は行われず、そのような分野では「脱成長型経済」が維持され、福祉の貧困等が継続されるのです。
★そして、前記の文章で「普通の経済学者」に斎藤氏によって格上げされた、資本主義的生産様式の社会の太鼓持ちの人たちの仕事の一つは、「資本」の「増殖」の場を見つけ、資本主義社会を維持することです。だから、彼らには「経済成長が必要」なのです。「技術革新」はそのためのツールであり、「環境の持続可能性」も「市民の生活改善」も「資本」によって脅かされているのです。斎藤氏は、なぜ、このような「味噌もクソも一緒にしたような」文章を書くのでしょうか。帰依する「脱成長型経済」に目がくらんで、「味噌もクソも一緒に」見えてしまうようになってしまったのでしょうか?
*:「マルクスは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということ、つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということ、そのことを「第二一章」を通じて明らかにしています。」(ホームページ5「歴史認識の発見が導く未来社会像」→5ー2「マルクス・エンゲルスの考えの紹介」→「D資本主義社会Ⅱ」の13-11「マルクスが「第二一章」を通じて明らかにしたこと」を、是非、参照して下さい。
〝結合労働の生産様式〟の社会を創るために
★学生時代に『資本論』を読んで、「未来社会の姿」も「そこにたどり着くための道程」も見つけられず、現在に至っても理解することができないままの斎藤氏は、「どんな社会、どんな世界で暮らしたいのか。そのために、どのような選択をするのか。喫緊の課題ですが、私たちに今、そのはっきりとした答えはありません」、と匙を投げてしまいましたが、このつたないホームページをご覧いただいたみなさんには、マルクス・エンゲルス・レーニンの考えが多少でも伝わりましたでしょうか?
当初の計画では、『資本論』で論及されている、もっともっと多くのことを、このページを通じて伝えたかったのですが、「ゼロから『資本論』」を読んでいない方にも、一定の理解ができるようにと思い、引用等も多くなり、ページ数も20ページ近くに膨らんでしまい、断念せざるを得ませんでした。お許しください。
なお、マルクス・エンゲルス・レーニンの考えをより詳しく理解していただくために、ホームページ5「温故知新」の各ページを参照していただければ幸いです。